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       歴史研究家  松重 正 著

  『 韓国と日本の歴史 』について

『国史』によると、今年は神武天皇が建国して以来紀元二六六二年目であるという。

 然し、これは如何にも短いのではないか、韓国は四五〇〇年の歴史、中国は五〇〇〇年の歴史、
同じ頃エジプトはピラミッドを造っていたが、ユダヤ人が月給を貰ってピラミッドを造っていたというのに、
日本の天孫族はヴュルム氷河期以来の「冷凍冬眠」を続けていたとでも言うのであろうか。

そのくせ日本の考古学者は縄文時代よりも、もっと古い新石器時代、いや旧石器時代の遺跡がどうのこうのと騒ぐ、
挙句の果てに「神の手」を持つという偽造専門の自称考古学者まで現れてマスコミは大変賑やかである。
それをまた本気にする歴史学者も居るというが、こんな国が世界にあるだろうか、なんとも可笑しな雰囲気の時代である。

 そもそも縄文倭人というものは、殆どが海流に乗ってきた漂着者であった。
ウガヤ王朝にせよ、天皇家にせよすべてが外来者であるからこのことを無視して歴史は語れない。

 イスラエルの旧エルサレム市街にある第八の門、いわゆるヘロデ門の真上に菊の御紋に似たヒマワリ紋がある。
そしてユダヤ国旗の紋は有名なダビデ王のカゴメ紋だが、
それと「菊の御紋」の三つの紋が伊勢神宮の参道に立ち並ぶ石燈籠にはっきりと刻まれている。
また内宮本殿の御神鏡・八咫鏡の裏には、モ−セが伝えた「エイエ、アセル、エイエ」(ワレハアリテアルモノナリ)
という神の言葉が書いてある。

 奈良東大寺・正倉院の御物がいくつあるのか見当もつかないが、なぜこれほどの中近東の宝物が日本にあって、
天皇家の宝物になっているのか世界七不思議の一つであろう。

係官の説明によると、この宝物はかつて聖武天皇の持ち物であったが、天皇の死後、
その皇后光明子が散逸を恐れて正倉院に集約したものであるという。
光明皇后は藤原不比等の娘であるとされているが天平十六年(七四四)十月三日、伊勢神宮に参拝したときに、
「藤三娘」と自筆で署名している(林陸朗『光明皇后』写真)。これが自筆であることは、
「光明皇后発願五月十日経奥書」に見える本人自筆の経文によって証明されている。

 されば「三娘」とは(不比等の)三女ということであろうが、(とう)とは藤氏=唐氏のこと、
即ち中国の唐から派遣され倭人の支配者となった私達が、
藤原(ふじはら)=(トウゲン・もと唐の人)と名乗っているのですよ、
という意味をこめて署名したものであろう。

 この藤原氏が京家、式家、北家、南家の四家に分かれ、その後裔たちが日本最高の貴族となって
国政を左右してきたことは国史に明らかなところである。彼等の家事奴隷であった武士(傭兵)たちが、
鎌倉幕府を立てて権力を握った後も、南朝になったり北朝になったり、京都御所、神社、仏閣、幕府官僚などを
隠れ蓑にしてしぶとく生き残った。

明治以後は華族となって復活し、現在でも(皇室の周りで)特権階級を維持しながら、
しつこく日本国民に寄生している。

 女流作家を自称する人達は、『源氏物語』を世界一流の文学などと持ち上げて、
中流意識の強い現代女性の感情をくすぐるような小説を書いて稼いでいるが、
外来貴族達の優雅な暮らしを支えるため、我々のご先祖様の倭人たちが長い間、
奴隷として働かされ、或いは百姓、職人、芸人など国民の九割以上がカ−スト制の下で
呻吟してきた悲劇の歴史には、目をつむり耳をふさいで触れようとしない。

そしてやんごとなき?天皇(扶余族)一家の秘事を語る・・その不思議さ・・・

 中国も例外ではない。

 中国において、皇帝は「天子」とも称された。もし人間としての権力では天下が服従しない時、
「天子」というもうひとつの独特の権威が発揮されたのであった。

 天子は上帝と相通じ、上天の命により臣民を駆使し服従させたのである。
皇帝は常に天子としての身分で、天、地、山川、海洋、社稷の神々をまつる祭祀をおこない、
統治の守護、天候の順調、帝国の安泰と臣民の平安を祈った。

 しかし明代の皇帝と清代の皇帝では差異があった。
それは清代の皇帝が、明代の皇帝が持たなかった−もうひとつの特権である宗教−その中でもラマ教、
黄教の最高代表者としての権威を掌握していたことである。
皇帝・愛新覚羅氏は積極的に宗教勢力をその手中におさめ、ダライ、パンチェン両ラマとの交流を緊密にし、
各層の高級僧侶と教徒を懐柔した。
そして全国各地の寺院を巡幸することにより一般僧侶や大衆をその支持者とさせ、
辺境地区の安全をはかる柱のひとつともしたのであった。

 チベット・ラマ教のダライ・ラマのことは良く知られているが、
パンチェン・ラマのことは日本ではあまり知られていない。
パンチェン・ラマとは何だろう、それはバンチェン文明の後継者のことではないだろうか。

 考古学上の発見によると、

1、前三六〇〇年頃、タイ北部高原バンチェン一帯に青銅器文化が起こり、
  それはまた優れた(縄文式)土器文化を伴うものであった。
  先住者から引き継いでこの文化を発展させた人たちは、おそらく西域から移動して来た
  ミャオ(苗)族だろうと云われている。

2、前二二〇〇年頃、中国の新石器時代、黄河中流域に(オリエントから伝わったと思われる)
  ヤンシャオ(仰韶)文化が起こり、チュルク人によって華北中原に広がっていった。

3、前一七〇〇年頃、黄河下流域に黒陶(黒色土器)文化が起こり、満州南部、揚子江流域、
  黄河上流にまで広がっていった。薄手で器形の種類の多いのが特色とされ、焼きも堅く、
  光沢があり、表面の黒色は焼くときの煙によるものといわれる。
  この土器を基調にしたものを黒陶文化・竜山(ロンシャン)文化と呼んでいる。

 竜山文化はまた、三つ足の黒陶や青銅器が数多く出土することでも良く知られており、
そのことから推理してバンチェン文化が中国に伝わったものと考えられている。

 するとこのバンチェン人が、中国の長い歴史の中で「黄教」という組織をつくり文化を継承していて、
その教祖がバンチェン・ラマなのであろうか。

 後漢末の農民の大反乱を「黄巾の乱」と呼ぶのも、関係があったのかも知れない。

 清代の皇帝たち、中でも聖祖・康熙(こうき)帝(16621722)、
世宗・
雍正(ようせい)帝(172335)高宗・乾隆(けんりゅう)帝(173695)治世の
黄金時代に中国文化の華が咲いた背後には、この二人の強力なラマ僧がいて、
卜占だけでなく良きアドバイザ−として協力していたのであろう。

 しかし現在、これらのことは中国の教科書には一言も書かれていない。
それは清代の修史者が悪いのではなくて、現代の政府や修史者が悪いのである。
他国の教科書に口を出す暇があったら、自国の歴史も再検討して、世界史に通用する真実の
「中国の歴史」を教科書にする努力をされたら如何であろうか。

 何もかも夜郎自大の中華思想に取り込むのではなくて・・・

 韓国にしてもウソの歴史を信じている人が多いのではないか。

『三国史記』に「瓢を朴という・・故に朴を以って姓となす」、「瓢公はもと倭人なり。
瓢を以って腰につなぎ海を渡りて来たる」とあり、倭人(南倭)である瓢公が朴氏の祖になったことは間違いない。
『桓檀古記』にも倭人はナ−ガ族でのちの朴氏であると記してある。
また昔氏はインドのシャキイ族であるが、金氏はアユダ国の王女が首露王の妃になったことでも判るように、
もともとアユダ国の植民地が沖縄から九州の豊日国に移り、さらに朝鮮において駕洛国となったものである。
つまり新羅三姓といわれる朴、昔、金の王族たちは倭人であり、統一新羅は倭人が建てた国だったのである。

 また、奇子朝鮮と檀君朝鮮を神話だといっている韓国人が多いが、これこそ無智文盲の愚論である。
奇子朝鮮は満州に建国したのちに馬韓に移り、秦韓の秦人とともに吉野ヶ里から畿内に逃れて秦王国を作った。
この人々を『記紀』は別倭といっている(これを大和朝廷というのは学者のデッチアゲ)。
邪馬壱国(倭国)は、大扶余、北扶余からつづく百済(南扶余)と共同した公孫氏の九州における植民地であった。

 このように歴史上は日鮮同祖、いや日中同祖とでもいうべき大過去が存在したのである。

朝鮮総督府時代の日本人が、特にクズのような日本人が、韓国人の父祖を差別した事実は 
歴史としてよく知られているし、ことに、厚化粧の年増だった閔姫女史の屍姦事件は
伊藤
博文がやらせたものだが、日本人のツラよごしでしかない。

  しかし、日本は朝鮮、台湾、満州などで住民を差別する反面で、必死になってインフラを整備した。
今それが生きている。これは事実として認めなければならないと思う。

 これからは皆がよく勉強し直し、同じ様な過去を共有してきた「歴史認識」に立って、
韓日の同祖民族が共同の文化構築を進め、玄界灘にもトンネルを開通して、
やがては手を携えて東洋民族の国を樹立すべきであると考える。

その一助にもなればと、いま『韓国と日本の歴史』を書いている・・・

                       松重 正       2001620


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