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    『韓国と日本の歴史』   まえがき

 日本人が韓国へ旅行すると、「倭人が来た」と言われる。
すると、「倭人とは日本民族のことだろうか」と、ふと思った人もいるであろう。

 日本民族または倭人のル−ツという問題は多くの日本人に興味をもたれ、
読みきれない程の研究発表もされているが、
鹿島fの史学ほど大胆にして的確な「仮説」は今までになかったように思われる。

昭和五三年(一九七八)、彼は自営の新国民社から『()と王朝』を出版し、
「かつて神武以前に『
(あめ)の王朝』という先王朝があり、日本列島を支配していた」
ということを明らかにして、韓国と日本の双方において大評判になった。
それ以来、数十冊にわたる著書や論文をつぎつぎに発表して、歴史学界に一種のブ−ムを巻き起こし、
「鹿島史学」ともいうべき金字塔をうち立てた。

中でも彼の最大の功績は『桓檀古記』「注釈付き全訳」の出版であろう。
つづいて韓国の古史古伝ともいうべき『檀奇古史』『符都誌』『契丹北倭記』などとの関連性を明確にして、
檀君朝鮮のル−ツがバビロンの地に発生したものであることを解明したのである。

 さらに、中国神話にいう人頭蛇身の伏犠・女?はバビロン神話の人頭魚身のオアンネスであり、
大洪水をとどめた女?はシュメ−ルの「大洪水と
方舟(はこぶね)神話(しんわ)」と
同じであることを明らかにしただけでなく、中国の古典とされている司馬遷の『史記』が
「オリエント史を漢訳して地名遷移した」偽史であることを克明な対比作業によって証明した。

 その偽史を二千年来最高の史書としてきた漢民族は、
殷(シュメ−ル人)→周(アッシリア人)→秦(バクトリア人)の文化遺産を
そっくり棚ボタ式に受け継いだだけであるが、彼らが「夷」すなわちエビスと呼んだ「殷人」が
日本列島に建てた
東表国(とうびょうこく)こそ、鹿島のいう「天の王朝」であって、
その列島支配は千年以上もつづいたものであった。

 それはまた南倭(なんわ)(じん)たちの国でもあったが、
三世紀の初頭、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下して来た扶余族タケミカヅチ(神武)率いる
北倭(ほくわ)(じん)が、南倭人と戦った末に妥協して立てた連合国家が
邪馬壱国(やまいこく)であった。

その女王卑弥呼は夫・神武の死後、実家の公孫氏(ユダヤ系亡命者)が立てていた
日向(ひゅうが)西都原(さいとばる)を都としていたが、
やがて、宗女・壱与は一族を率いて対馬へ移動し朝鮮南部(
咸安(かんあん))に飛び地を作り、
合わせて
安羅国(あらこく)とした。

一方、東表国は洛東江流域に金官加羅国を作り、朝鮮南部と九州を支配する「倭の大王」として君臨していたが、
三五六年、その王族の奈勿王が独立して新羅を建てた。
そして、その新羅と安羅の挟撃によって五三二年、金官加羅国は滅ぼされたのである。
そのため、安羅が加羅を併せて「倭国」となり、やがて新羅とも対立するようになった。

 その後は、朝鮮半島と日本列島の支配権をめぐって、高句麗、新羅、百済、倭国の争いとなり、
一進一退を繰り返していたが、当時の世界帝国唐の援助を得た新羅が先ず百済を亡ぼした。
その百済復興軍と倭国の援軍を六六三年、
(はく)村江(すきのえ)の戦いで破った唐・新羅連合軍はその勢いに乗って
一気に九州へ押し渡り、大宰府に
筑紫(つくし)都督府(ととくふ)
構えて占領統治を始め、彼らのための防衛施設建設に取り掛かった。

 六六八年、新羅は唐と協力して宿敵高句麗を亡ぼすと、
六七二年、唐の
熊津(ゆうしん)都督府行政官となっていた百済王(隆)の軍を破り(壬申の乱)
倭国へ追放した。
これを受けて倭国に進駐していた新羅王族たちは六七三年、
九州の倭国と近畿の
(しん)王国(おうこく)を合わせて
「日本国」とし大和飛鳥の地に建国したのである。

 六七六年、唐が朝鮮半島への進出を断念すると「統一新羅」が誕生したが、
その支配権は日本列島をも含む広大なものとなった。
新羅王は皇帝となり、日本に派遣された
舎人(とねり)親王は
日本の総督を天皇として『日本紀』を作り、縄文時代からの「天の王朝」の歴史をすべて抹殺し、
新羅天皇家が有史以来続いてきたとする創作を報告文として唐へ提出した。

その『紀』をのちに百済王(くだらのこにきし)の道鏡や桓武らが
度々
改竄(かいざん)して『日本書紀』が出来上がったのであり、
その改竄に合わせて『古事記』もまた改竄されているが、従来の歴史学者はこの『記紀』を
唯一最高の「史書」として日本歴史をつくり国民を教育してきた。そのため一
,三〇〇年以上たっても未だに、
「万世一系」の天皇家を頭に戴くという大ウソの「日本民族一元論」などが我がもの顔で横行しているような始末である。

 従来の韓国の学者も檀君朝鮮の歴史認識が誤っているだけでなく、
『記紀』合せの誤認識に基づく韓日交流史を想像で並べ立てて、益々本当の歴史を判らなくしている。

韓国の学者は事あるごとに日本の歴史認識は誤っていると騒ぎ立てるが、それはお互い様ではないのか。
何時までもこういうことを続けているのは、或いは共通の先祖を持つ両国の人々にとっても
大変不幸なことだと云えるであろう。

 最近ようやく韓日両国の歴史学者が共同研究に取り掛かろうとしているが、
どちらも従来のアカデミズムの立場を主張し合えば、
話は食い違うばかりでまたまた喧嘩別れに終るのではないか、と心配である。

 鹿島fは二,〇〇一年四月二四日、七五才で惜しくも病死した。
彼は生前「時間と金が欲しい」としきりに言っていたが、
「鹿島史学」をもっと世に広めるためには両方が必要であり、その意味で彼にとっては短い一生だったのであろう。

 彼の偉業を継いで、読みやすくした「鹿島史学」を紹介する試みを始めようと思い立ち、
今回『韓国と日本の歴史』と題する発表で
少し堅苦しくなったが、熱意と志だけは持っているのでご理解の上末永くお付き合いのほど
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ただ浅学非才の小生であれば、この試みが、かえって鹿島の名声を汚すことになりはしないかと恐れるばかりである。

          松重 楊江           2002420

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