情報ネットワーク INFACT

   歴史研究家 松重 楊江 の 略歴

 大正一四年(一九二五)三月三〇日、山口県に生まれる。
実父は柳井市の事業家で山口県会議員の大○○蔵、実母は上○松園の唯一の内弟子で
日本画家であった安○○○子(柳井女学校卒)。
だがこの二人の仲は恋愛で私は庶子になるため、
実父の弟で当時東京の芝に住み役人(勅任官)をしていた大○○之の長男として、
港区役所に届けられている。

 しかし実際には○蔵の何番目かの内妻の差し金で、
当時神戸に住んでいたという実母の手許から奪われ、(母○○子の目を晦ますため)
岩国市の奥、錦川流域の玖珂郡桑根村椋野の滝○家に養子(満一歳)にやられた。

 幸いに滝本の両親は無学ではあつたが、正直者で働き人であったし、
自分達の二人の子を亡くしたばかりであったから、
大○姓から滝○姓に変わった−幼児の正を、実の子同様に愛し育ててくれた。

 何も知らされていない正は、小学校四年まで南桑尋常小学校へ1里の道を歩いて通った。

当時の山や川で遊んだ楽しい思い出は、いまでも忘れることはできない。
やがて五年生から柳井小学校へ移されて滝○○メ(養母)の姉・松重○ナ宅で
暮らすようになり、そして柳井商業学校へ入学した。

同校三年生のとき、進学希望をだす書類作成の折に、初めて出生の秘密を知った。
大変なショックであった、おまけに大○家の手によって実父の死後、
「正の進学貯金」まで処分されていたから、一時は随分落ち込んだ。

それを救ってくれたのは、ソフトテニスである。独りコ−トの手作りから始めて、
勉強もそっちのけで熱中した。そのため随分強くなり、爾来今日まで現役で続けている。
腹は少し?出ているが、大きな病気もせず元気なのは年中テニスを続けているお陰であろう。
大学に行かせて貰えず、貧乏な境遇を嘆いたこともあるが、テニスのお陰で「なにくそ」と
立ち上がることが出来た。
人生何が幸いするかわからないものであると、この頃つくづく思う次第である。

 一九四二年一月、光海軍工廠へ入り会計部計算課予算決算班に所属、やがて筆生となる。

 一九四四年一二月、陸軍西部第九部隊師団通信隊(広島)に現役入隊。
直ちに中支前線に派遣され、南京経由で揚子江を遡った。

 一九四六年三月、上海からリバティ船で博多に上陸し復員。
柳井には食糧が少ないので椋野に帰り、椋野と柳井の間を自転車で往来していた
(その頃ル−ス台風にやられる)。

 一九四七年、日本共産党に入党。玖珂郡の北部で活動していたが、やがて柳井に移った。

 一九四八年、岩国市に移住し、岩国税務署管内の約二〇町村の農民三五〇〇人を動員して
大税金闘争を起こし、日本で唯一の署長の職印を押した「六ヶ条の約定書」を取った。

 それを取り返すため、呉の米軍海兵隊基地からマリ−ン部隊が飛んで来たほどの騒ぎになったが、
農民らの結束は固く闘争は大勝利した。その後また「米の事前割当反対」をスロ−ガンにして
今度は青年ばかり一五〇〇人動員したので、岩国空港駐留軍(オ−ストラリア軍)は中立声明を出し、
岩国警察と県の地方事務所の幹部は逃亡するという事態になったので、
青年たちの手で市内の治安を守ったほどであった。

 このあと東部地区委員長になった。

その頃の生活は借家で、薄い味噌汁にメリケン粉を水で練って放り込んだ、
俗に「スイトン」というのが主食だったが、それでも頑張って労、農、商人、在日朝鮮人などの
組織を次々に作っていった。そのころ東部地区(二市、三郡)で党員数が一〇〇〇人はいて、
町村長も何人か確保したほどの勢いであったから、その影響が長く残ったのであろうか、
現在まで引き続いて選挙の度に、岩国市では県下でも珍しい共産党の県会議員が毎回一名当選している。

 だが今の県議さんは、恐らく私のことも戦後の歴史も知らないだろう。
また今の日共は私たちのころの党員とは随分違う人たちのようであるし、
社会革命を目指す綱領も熱意もない、単なる不平不満党の選挙屋のように感じられてならない。

 県委員、県常任委員、中国地方委員候補となり、日共の「共産党大学」第一期生に
中国地方代表として選ばれ東京周辺の大工場などを教場として学んだが、そのとき中央委員の面々と
身近に交流しその能力を確かめることが出来て良い人生勉強になったと思っている。

やがて日共は分裂、私は国際派に所属して大阪へ、さらに東京へと移住して
国際派中央ビュ−ロ−書記(最下位)になり地下活動を経験することになった。

 この時、宮本顕治に秘書を付けることになって私と大島郡情島出身の児○君(山大卒)が
候補にのぼり、児○君の方がおとなしいからという理由で選ばれたが、この児○君はのちに
中央委員となって「アカハタ」の編集局長を勤めている。

一九五二年、国際派解散に伴い柳井市山根西の松重家に帰る。
爾来度々の復帰要請を受けるも再入党せず、独りで女所帯を立て直すことに専念するようになった。

 同年、近所の○銀さんから事業所の再建を頼まれ、初めて商人の道に入る。

一九五七年、松重○ナの養女喜○子(一九一一年生)と養子縁組して松重姓を名乗ることになり、
藤○美○子(一九二九年一月生)と結婚、その後二人の男子を授かる。
喜○子はのちに家を出て○井喜○子となり、現在も健在、私が世話をしている。

 また、このころ突然実母から電話があり、山口市の百貨店で対面した。
それから実母の再婚先・阿武郡○○の曹洞宗桂光院谷僧○(曹洞宗山口県支部長)と
家族ぐるみの交流が始まり、それはお二人が亡くなるまで親密に続けられた。

やがて幼馴染の○銀の息子さんと協力し、社名を改めて株式会社にし、
事業に取り組んだところこれが当って、年商七億円、社員二〇〇名になった。
私は営業を担当し販路を全国に拡大して取締役にもなっていた。
(同社はいま年商がその頃の一〇倍以上になり発展している)。

一九六八年、退職して半年後、柳井市で有限会社を創立し事業を始めた。

当時の仕入れと営業両方の実績を買われたのか、大阪に本社がある紙の代理店が
バックアップしてくれることになり、苦しい初期を乗り越えてからは、
社業は順調な発展を見せ有能な社員も定着するようになった。

一九七三年、現在地に土地を求め新社屋を建築して、一二月より営業を開始した。

一九七六年、早くから購入していた土穂石の土地に自宅を新築して移転した。

 この頃から、既に始めていた歴史の研究にもテニスの練習にも熱が入るようになった。
恐らく柳井市庭球協会会長、山口県史学会会員になったのもこの頃であろう。
人に勧められて柳井ライオンズクラブに入会し、その後数々の役職を経て今日でも在籍している。

 一九八〇年には、遅まきながらゴルフも始めたが、翌年ホ−ルインワンをやり、
随分お祝いをさせられたのには少々びっくりした。この頃から多少の余裕が出来たので、
海外旅行に行きはじめ、夫婦で毎年一回以上行くことにして楽しんでいる。

 一九八五年、還暦を迎えて市会議員に立候補し一度だけ当選した。
所属政党は自民党の柳井支部で佐藤派に属しているが、何時の間にか顧問ということにされてしまった。
私は今まで過去の経歴を隠したことはなく、皆もよく知っているがあれこれ言う者はいない。
それは私の経歴に女と金のトラブルがないからであり、一番こわい妻の前でも
胸を張っていられるのはそのためであろう。

一九八七年、先述の如く鹿島fとの出会いがあって、爾来彼の著書を読んで理解することに
専念するようになった。 鹿島がある時、「松重さんを見ていると、大学なんか必要ないと思える、
むしろ高卒者の方が理解力に優れているのだろうか」といったことがある。

だがそれは平素の私の努力を知らないからで、ここに至るまでは何年も何年も試行錯誤の連続であった。
今漸く世界の歴史が見えてきだしたばかりである。

 一九八八年、玖珂町に本社のある企業の要請で、釣り関係業の新会社を設立した。

二〇〇一年、主業である有限会社を増資して改称し株式会社とし、私は代表取締役会長になった。
妻も引退の準備を進めていて、やっと夫婦そろって隠居になれる日も近い。

平成15年新刊「日本史のタブーに挑んだ男」発刊を期に 著名を 松重 楊江
 とする。

              終            2001620

                   戻 る           このページの頭へ


インファクトHOMEへ